【欲界】著者:kido
こんにちは! kidoです。
この度、つむぎ書房さんから私の小説作品『欲界』の出版が決定しました♪
発売日:2021年1月18日~
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紹介として、あらすじや小説の一部を下記にアップしています。
読んで頂き、興味を持たれた方、続きを読みたいと思われた方は購入して頂ければ嬉しく思います。
あらすじ
あなたの人生最大の『欲』は何ですか?
正義としての欲……
仕事上の夢や目標? 結婚? 幸せな家庭? なりたい人物像?
しかし、その個々の正義と信じる欲は、時としてぶつかり合うことがあるでしょう!
その相手は、親かもしれない。
友人かも、恋人かもしれない。
世の中は、そんな個々の欲が渦巻いている世界だと私は思います。
そこで起こる様々な問題や葛藤等をテーマに描いた作品です。
(あらすじ)↓↓
夏樹は、幼少期、自分の身をおく家庭にどこか違和感を感じていた。父と母の不仲…そこには何かが潜んでいるように感じていた。
夏樹は、その違和感を秘めながら成長し、様々な人、事柄に出会っていく中で、自分の中に「欲」が膨れ上がっていくのを感じた。
その欲は、「世界を旅したい」という純粋な彼の正義としての欲であった。
彼は、自分の欲=夢を達成すために、誰にも文句の言われようのない自立した生き方を通した。
しかし、彼が夢と向き合っている中で出会う様々な人は、各々自分の中に欲を持っている人間たちであった。
その人たちの欲も各々に揺るがない正義を宿していた。
その欲と欲との行き交う世間で、夏樹は、昔、家族の中に感じた違和感が甦る。
その違和感の正体とは?
そして、彼は自分の人生にどのような決断を下したのか?
第一話 旅立ちの時
保安検査場のゲートブザーが反応した。
僕は瞬時にあらゆる可能性を考えた。ベルトはしていないし、金属製のものは身に着けていない。そもそも、そんなミスをするほど飛行機慣れしていないわけではない。
検査員が駆け寄って来る。
ここまで来てもまだ僕を自由にさせないのか?
迫る不安感で体が硬直した。
前方では先に保安検査が済んだ彼女が、からかうような笑みを浮べてこちらを見ている。
「失礼しました。問題ありません」
そう言って、検査員は頭を下げた。
僕は体に再び血液が流れていくのを感じながら、平然とした表情を作り、保安検査場を去っていった。
僕はガルーダインドネシアGA365便の窓側の席に着いた。荷物の整理など、まだ落ち着かない機内を見渡していた。同じ飛行機に乗るこの人たちも、目的地は同じくしても目的は違うだろう。日常と非日常が混じり合っていたりもする。
そんな無秩序な空間の中、僕は眠剤を口に含んだ。飛行機に乗る時、特にフライト時間が長い時はいつもそうした。
眠剤を嚥下すると同時に、急に込み上げるものを感じた。それは誤嚥による吐き気ではなく、感情的なもので、その証拠に目には涙が浮かんでいる。
だが、なぜ泣いているか分からなかった。指で涙を拭いながら、その涙の理由を考えた。
理由を視覚で探ろうとしてか、ふと、窓越しに外を覗くと、機体から羽が真っ直ぐ伸びている。どうやら僕たちの席は羽の延長線上に位置しているようだ。
飛行機の羽とはこんなにも長かっただろうか? そんな疑問と共に僕の視線は羽の延長線上を辿って、その向こう側に向かった。そこには只々平凡な景色が広がっている。雲の混じった空があって、綺麗でもない海、何に役立つか分からない巨大な人工物とそこで働く人たち。しかし、それらが鮮明に美しく見える。大自然の絶景を見るかのような特別なものに映ったのだ。
そうだ……僕が生きたこの四〇年間の半分は、この景色を見るために費やされたものだった。今、そう確信した。
日々の生活は坦々と過ぎ去っていくにも関わらず、ここに辿り着くまでの道のりは果てしなく長く感じたのである。
機内に視線を戻すと、皆、座席に着き、落ち着いた様子に変わっていた。その整った焦点の定めようのない空間を漠然と眺めながら、自分は一体何を考えていたのだろうと、考え直した。考えようとしても思考が上手く働かないのは眠剤の効果が表れてきているからだろう。
朦朧とする視界の横から彼女の手がそっと僕の手にふれ、「もう大丈夫よ」と言った。その囁くような声は、僕の脳内を心地良く反響し続け、自分の涙の理由が安堵感だと突如理解できた。また、理解できた更なる安堵感から僕は大きく息を吐き、静かに瞼を閉じた。
第二話 家族
僕は足早に自転車を走らせていた。何か言いようのない恐怖に駆られていたからだ。学校の校則で被らなくてはいけないヘルメットは、籠の中でガタガタ揺れている。その音がまた怪奇なことを連想させ、恐怖が倍増する。
僕の通う中学校は家から約六キロ、自転車で三〇分ほどかけて通学していた。電車もなく、山に囲まれた田舎町で、真ん中に大きな川が一本通っている。その川はガンジス川のような神秘的存在感を放っており、それを崇拝するかの如く、沿うように村の集落が点在している。
僕はいつも不思議に思った。下校時、いくつかの集落を通り抜けて帰るのだが、自分の住む地区に入った瞬間、空気が変わるのだ。
隣町の最後の家を過ぎると、山崩れ防止の擁壁が約二〇〇メートル続く。そこには一軒の家もない。無機質なコンクリートに苔が付着し、呪いのように模様が描かれている。そこは空気が螺旋状によどんでいる気がして、何か不気味な境界線が存在しているように感じた。昼間で世間がどれだけ晴れていようが、その境界線を越えると空気が重く湿ったように変化する。僕は魔界か霊界か何かの入口だと思った。
その日も境界線から恐怖と戦いながら無事家に着いた。しかし、僕の家もあくまでそのテリトリーにあった。不気味な空気は同じくしている。ただ、家では家族の存在感が、というよりも人間の存在感がその不気味さを和らげている気がした。
僕は家の堅い扉を勢いよく開け、「ただいまあ」と言いながら、一目散に自分の部屋に向かった。
鞄を自分の勉強机に放り投げ、私服に着替えていると、「おかえり」と言いながら、母の美奈子が部屋に入ってきた。夕飯の準備中だったのだろう。ピンク色のエプロンが水に濡れたところだけ色濃くなっている。母は濡れた手をエプロンでクシャクシャと拭きながら「あんた、塾行きよ! なお君行っとる塾やけどな。そこの塾長ちょっと変わってる人やけど、絶対夏樹に合う人や言うんよ。せやし、なお君も慶子ちゃんもそこ行ってる子、みんな勉強できるやんか。な! 行ってみるけ?」
「う、うん。まあ、ちょっと考えるわ」と僕は適当に答えた。
「ご飯、出来てんで!」と母は微笑んで言った。
僕は台所に行き、自分の定位置に腰を下ろした。椅子はいつものように軋んだ。
右側には父、左側に弟、向側には祖父と祖母がすでに座っていた。これが我が福井家の食卓フォーメーションだ。そして、母だけが忙しく台所を小走りに動き回っている。
食卓には酢の物、ほうれん草のお浸し、冷奴が並んでいた。僕が冷奴に箸をつけてすぐに、母が揚げたてのトンカツを運んできた。全て出揃った食卓を見ると、とても栄養バランスの考えられたメニューだと気付いた。
「ちゃんと中まで揚がってるか見てやあ」と母が次の豚カツを揚げながら言った。
すると、これまで横で黙ってビールを飲んでいた親父が突然口を開いた。
「こんだけの色しとったら揚がっとるわ!」
目が据わっている……
親父は酒癖が良くなかった。飲むと不機嫌になり、理不尽に当たり散らした。
「こんなもん食えっか!」と皿を投げるのも日常的なことであった。分かり易く言えば、卓袱台をひっくり返す典型的な昭和親父だ。そういう時の親父はいつも目が据わっていた。
「そう言や夏樹、お前、塾行くんか? 成績あかんし、行ったらええけど、お前……遊びに行くんちゃうぞ! わかっとんか?」
親父はすでに不機嫌だった。爺さんと婆さんは何も言わず静かに自分たちの部屋へ去っていく。
「うん。分かっとる」と僕は親父の顔を見ずに、とりあえずそう言った。こういう時は余計な言葉は不要だ。どの言葉が起爆装置になるか分かったものではない。
夕食後、僕は洗い物をしている母にそっと近づき、「おかん! 俺塾行くわ」と言った。
「そう。ほな、なお君のおばちゃんにもそない言うとくわな」
「うん。頼んだ」
「頑張るんやで」と母は優しく言った。
とりあえず自分の成績が悪化していることは分かっていたし、話を聞いた時から密かに行こうとは決めていた。だが、僕は成績云々よりもそこの塾長に強い関心を抱いていたのだろう。聞いていたことは釣り好き、下ネタ好き、髭面、語学堪能等で、あまり多くは知らなかったが、僕は子供ながらの感性でその些細な情報から描き上げた人物像に心を高鳴らせていたのだ。それから母に「塾行く」と伝えてから約一週間後に面談が決まった。
第三話 メンターとの出会い
犬神塾と書かれた看板の前に車を止め、母と一緒に塾の門をくぐった。敷地内は盆栽や庭木が多く、森かと思うくらい緑が多い。中央に砂利と石畳が奥へ導いている。塾長の聞いていたイメージとは逆に庭は綺麗に手入れされていた。
石畳の上を歩きながら少し奥に進むと、一台の白いワゴン車が停まっていた。三菱のデリカだ。車はここ数年洗車していない汚れ具合で、数か所銃で撃たれた穴が空いていた。よく見ると銃痕はステッカーで、そのお茶目な感じが妙に気に入った。このワイルドな車は想像していた塾長のイメージと気持ち良いくらい合致した。しかし、明らかにこの和風の綺麗な庭には浮いていた。
僕が車に気を取られていると、奥から女性が「Hi! こんにちは」と言って出てきた。外国人だった。長身で細身、モデル並みの体型、年齢はそれなりにいっているものの端整な顔立ちの西洋人であった。英語の先生か事務員かと思った。
「どうぞ。こちらへ」と外国人は堪能な日本語で僕たちを中へ案内した。
僕たちは軽く会釈し、案内されるまま後を付いて行った。庭を抜けると青い屋根に白壁の木造小屋が二棟あった。手造り感のある洒落た外観であった。なぜかシンナーの匂いが充満していた。
「ちょっと待っていてくださいね」と言うと、外国人は隣の母屋に消えて行った。二、三分待っていると、母屋から汚らしい髭面のおっさんが姿を現した。
「こんにちは。お待たせしました。塾長の犬神光です」と言いながら、満面の笑みを浮かべ近付いてきた。
母は「こんにちは」と言って頭を下げた。
僕も続けて「こんにちは」と言った。
「こんな恰好ですいません。ペンキ塗ってましてな」と言って、塾長は着ている作業服をパンパンと払った。その姿はどう見ても先生という堅い仕事をしている人間には見えなかった。僕たちはその姿に唖然とし、どう答えて良いか分からず微苦笑していると、「まあまあ入ってください」と中へ案内された。
「お邪魔します」と言って、僕は靴を脱ぎ部屋に入ろうとすると、「あ! ペンキ塗りたてやから壁触りなや」と塾長は慌てて言った。
「あ、はい」と僕は反射的に答えた。どうやら無意識に壁を触りかけていたようだ。
僕は部屋に入り中を見渡すと、壁に掛けられた一枚の写真が目に飛び込んできた。近づいて見てみると、この塾長が自分の背丈ほどあるキングサーモンを持って満面の笑みを浮べている。僕は気持ちが高鳴り、緊張していたことを一瞬忘れたほどである。
「これ塾長さんが釣ったんですか?」
「せや! でかいやろ!」
「凄いです……」
「何や? 君、釣り好きか?」
「はい!」
僕は思わず返事する声が大きくなった。なぜなら、この時期の僕はブラックバス釣りが趣味で、釣りには強い関心があったからだ。
「そうか! これがアラスカのキングサーモンや。勉強頑張ったら連れて行ったろ」
「ほんまですか?」
塾長は笑顔で肯いた。そして、横でいた母に目を移し「さあさあ、座ってください」と言った。
「はい。失礼します」と言って、母は席に着いた。
僕も慌てて席に着いた。
席に着き、早速母が僕の成績の分かるテストや通知表を塾長に渡した。塾長は真剣な顔つきに変わり、その成績にじっと目を通していた。しばらく沈黙が続き、その合間に先ほどの外国人がお茶を差し出してくれた。
茶の良い香りが漂う中、塾長は「ふう」と大きな溜息をついて口を開いた。
「はっきり言って、ぎりぎりですな。二年生やし、これ以上悪かったら間に合わんとこですわ!」
「そうですか」と母は肩を落として言った。
僕は自分のことなのに自分のことでないような気持ちだった。只々、湯呑みの中で漂う茶柱を眺めながら二人の話を聞いていた。
「先生、本当にこの子大丈夫なんでしょうか? 特別賢い高校にとか、そこまでは求めてないのですが、せめて普通の教養は身に着けさせたいとは親心として思っているんです」
「そうですな。何も勉強だけが人生じゃない。でも、可能性を増やすという意味でも勉強は出来ないより出来た方がいい。お金みたいなもんですな。金があっても幸せになれるとは限らないけど、間違いなく人生の選択肢は増えます。ね?」と先生は言って微笑んだ。
「そうですね。おっしゃる通りです」と母は感心した面持ちで先生を直視していた。
「そうしたら実際にこの子にはどんな勉強方法を?」
「そうですね。特に英語や数学は基礎が大切です。この子の場合基礎の基礎からやってもらいます。この二つの教科は基礎、特進と学力に応じて二つのクラスに分けて勉強しています。まずは基礎コースのクラスに入ってもらうことになりますね」
「そうですか。藤岡さんたちの子は皆、上のクラスなんでしょうね」
「あー、そうですな。でも、そんなことは気にする必要はない。この子は今からスタートするんですから。ね!」
「そうですね。すいません。人の子と比べるような」と母は俯き、自分の言葉に悔いているようであった。
「でも、大丈夫! この子の頑張り次第やけど、やってくれるでしょ」と塾長は言って、笑顔で僕の方を見た。
僕は何となく恥ずかしくて目を逸らした。
すると、母が横から「出来の悪い子ですけど、よろしくお願いします」と僕の頭を押さえ、一緒にお辞儀をした。
一通り話が終わり、僕たちが部屋を出ようとした時、先生は「おい!」と外国人を隣に呼びつけた。
「すいません。言いそびれまして、妻のサンドラです。小さい子供たちの英語と、後は塾のもろもろの雑務をしてますので、よろしくお願いします」
「よろしくお願いします」とサンドラさんが、丁寧に日本語で挨拶をした。
「こちらこそ、よろしくお願いします」と僕たちも二人で頭を下げた。
犬神先生とサンドラさんは、僕たちを看板下まで見送りに出て、車で去っていく僕たちに向け手を振った。バックミラーに仲良く映る二人の姿は、僕にとっては少し気味悪く感じた。
なぜなら、僕が物心の着いた頃には親父と母の仲は冷め切っており、喧嘩の絶えない夫婦仲となっていた。その光景が当たり前となり、逆に仲の良い夫婦を見ると違和感を覚えるようになっていたのだ。
「夏樹、どうやった?」と車を運転する母はまっすぐ道路を見つめたまま僕に質問した。
「ええ先生やん」
「ほな、この塾行くけ?」
「うん。俺に合ってそうやわ」
「そう」と母は一瞬僕のほうを見て微笑んだ。
「頑張って早くなお君らと同じクラス行くわ。ほな送り迎いも一緒で楽やろ?」
「お気遣いありがとうございます」と母は笑った。
僕も笑った。二人で笑った。
家に帰ると、親父はテレビの前を陣取り大相撲を見ながら酒を食らっていた。その光景見て母は冷ややかな口調で、「帰りました」と言った。
「おう」と親父はテレビを見たまま返事をした。
「あんた、もう仕事終わりけ? 世間の人らまだまだ働いとるで」
「あ? やかましいわ! ボケ! もう今日はしまいなんじゃ」
「今日は? 毎日やん! 朝も遅いくせに」
「なんじゃお前! ごちゃごちゃ言っとらんと早よ晩飯の段取りせえ!」
憎しみ合った目でお互いを睨み合う。しかし、僕にとってこれはいつもの光景で特に何を思う訳でもない。これが僕の夫婦像だ。
「おい、夏樹。ほんでお前塾どないやってん」と親父は話をこちらに振ってきた。
「え? まあ、良い先生やったし、行こう思ってるけど」
「良いって、どない良いんぞ?」
「いや、わからんけど、釣りとかもするし何か合うかな思って」
「あ? 釣り? だからお前、遊びに行くんちゃう言うとるやろが! お前行く言うて、その金誰が出す思とるんぞ? 中途半端しとったら承知せんぞ!」
「分かったって」
こう夫婦喧嘩が飛び火してくると、大変面倒であった。でも、面倒はいつものことで、そんな日常に犬神塾に通うという新たな生活が僕に加わった。
塾に通いはじめると、成績は順調に上がり中学校でも中の上くらいの順位まで上がった。塾のクラスも思ったより早く特進に上がり、なお君たちと一緒に通うようになった。
それはそれで良かったのだが、僕は勉強や成績とは別に、ある種それ以上人生に影響を与えるものをこの時期に吸収していたようだ。それは勉強とは違い、無理に取得するものではない。乾ききった体に浸透する水のように、素直に僕の中へ吸収されていったのだ。
第四話 夢のつぼみ
そう言った話は突如始まった。
犬神塾の教室の広さは一三帖ほどで、そこに机をコの字に並べ、前にホワイトボードがあるという配置であった。コの字の中央で先生が椅子に座って各生徒のもとへ動き回るのだ。
案外時間にはきっちりしている先生であったが、その日は一〇分ほど遅れて教室に入ってきた。僕たち生徒は雑談しながら塾のプリントを机の上に広げ、勉強の準備をしていた。
「遅れてすいません」と先生は、律儀に謝りながらいつものコの字の中央に立った。
先生は仁王立ちで「うーん」と唸って、皆の目を一通り見て持っていた教本をドン! と空いている机に放り投げた。
「よっしゃ! お前たち、今日は勉強やめや! 机の上のもん全部しまえ」と先生はやけくそ気味に言い放った。
顔はこれから遊ぶ子供のように活き活きした表情を浮かべている。
「はい、片付けましたか? 今日は大事な話をします。勉強より大事です」
「勉強より大事な話?」と一人の生徒が聞き返した。
「そう。先生自身が今までどうやって生きてきたのか、またそれで何を思うかを話したいと思います。こんなおっさんの話興味ないか分からんけど、ちょっと黙って聞きなさい」
その先生の言葉を聞き、僕の心は高鳴った。それは勉強しなくていいという怠け心ではなく、その話を純粋に聞きたいという積極的な気持ちであった。しかし、中には勉強しに来ているのにと、しらけた顔をする生徒もいた。
「先生、東大受験に失敗しました。だから僕は高卒です。知っている人は知っていると思いますがね」
先生の話はここから始まった。
「それから少し自暴自棄になってましてね。勉強もせず、就職もせずフラフラしていたんです。それでアルバイトで貯めた少しの金だけ握りしめて旅に出たんです。只々興味本位でね。だけど、行ってみれば何とかなるもんです。お金なくてもね。現地で働かせてもらったりして、後は好きなことだけしました。今でも良く行くアラスカで釣りしたり、カリフォルニアでサーフィンしたり、金ないくせにカジノなんかも行ったね。本当毎日毎日が楽しかったですよ。子供に戻ったみたいに時間もゆっくり流れている気がしました」
そこまで言うと先生は過去を想い出すように天井を見上げ、快楽的な表情を浮かべた。それから、バルバラさんを呼びプロジェクターをセットするように指示した。プロジェクターの電源を入れると、いつもは勉強に使用するホワイトボードに僕の知らない世界が映し出されていた。
「そんなにたくさんはないけど、僕が世界を旅している時に撮ったビデオです」
皆、その知らない世界を眺めた。一人一人どのような想いでその映像をみていたかは分からないが、少なくとも僕の心には刺さるものがあった。それはテレビで放送されている旅番組と違い、もっとリアルな外国文化が伝わってくるものがあった。
「皆どうや? 見たことない世界やろ?」
「先生、もうすでに英語喋ってますやん! 最初から喋れたん?」と一人の生徒が声を上げた。
「いや、旅に出る前は全く話せませんでした。でも以外に語学って覚えるの難しいもんじゃないんです。先生みたいに一人で全く日本人のいない場所に行けば、半年くらいで誰でもそこそこコミュニケーションがとれるようになります」
「そーなん! でも僕らこんな英語勉強してても全く喋れる気がせーへん」
「うん。勉強してる君らにこんなこと言うのもなんやけど、君らに教えてるのは受験用の英語や! だから、はっきり言ってこんな勉強しててもいつまでたっても喋れるようにはなりません」
「マジかよ! ほんじゃ何のために勉強するん?」と一人の生徒が嘆いた。
「受験のためです。受験のために君らは今勉強してます。だから、それはそれで頑張りなさい。先生嘘は言いません」
「はーい」と何人かの生徒は相槌を打った。
「はい。まあそれで先生はこうやって遊びの中で英語、スペイン語、フランス語を話せるようになりました。外国の友達もいっぱいできました。それに嫁さんもね……」
そう言うと、先生は恥ずかしそうに笑いながらサンドラさんの方をちらっと見た。
「キャー! その話もっと聞かせて!」と女子生徒が過剰に反応した。
「分かった。分かった。先生、このインドの後、ヨーロッパの方に渡りました」
映像はガンジス川で洗濯する老婆が映し出されている。
「それで、それで!」と女子生徒は話を促した。
「うん。それで、先生スキーのバックカントリーに挑戦してみたくなって、スペインの有名な山に挑んだんです。あ! バックカントリー言うんは自然の山で滑るスキーです。それで、挑戦したのは良かったんやけど、大事故してしまいましてね。本当に死んだと思いました。先生ここ凄い傷跡あるでしょ? これがその時の傷ですわ」
そう言って、先生は自分の右目の上を撫でた。
「それで、その時たまたま登山をしていて、助けてくれたのがサンドラです。でも先生その時は意識朦朧としていて、はっきり顔を覚えていませんでした。その後、数か月経った後にたまたまその町のスーパーで再会したんです。もちろん僕は顔覚えていませんでしたので、彼女から声をかけられました。これが嫁との出会いですわ」
「へえー、なんかめっちゃドラマティックな話」と女子生徒は興奮した。
「運命ですね」とまた女子生徒が一人反応した。
「まあ本当にそうかも知れませんね」と先生は言って、恥ずかしそうに笑った。
女子の興奮とざわめきが収まるタイミングを見計らい、また先生が口を開いた。
「それでまあ先生はスペインから嫁さんを持って帰り、旅で身に着けた語学もありますし、塾を開きました。何よりたまたま先生らには子供ができませんでしたので、君ら塾生を子供のように育てたいと思ってます。だから君らには勉強だけ教えるのじゃなくて、たまにこういう話もしたいと思ってます」
気付くと、先生の顔は真剣な表情になっていた。
「つまり、今回何が言いたかったか言いますと、君たちには自分に正直に生きて行ってほしいと言うことです。良い子になる必要はありません。意味はわかりますね? 君たちのお父さん、お母さんが引くレールの上を走る必要はないということです。別に走ってはいけないこともないのです。それを自分自身の素直な気持ちに従って判断してほしいのです。そうやって自分に素直に生きていれば後悔はないはずです。もっと平たく言えば、好きなことをしなさい! 好きなことをする時は自分が思っている以上にパワーがでるんですよ。どんなことでも好きなことを突き詰めて行けばそれが仕事になったり、仕事にはならなくても必ずそこには学びがあります。君たちにはそうやって、それぞれの道を生きて行ってほしいと思います。以上! 今日の授業を終わります」
この話は僕の冒険心をくすぐり、『世界は広い! 自由気ままに世界各国を旅したい』という気持ちが強くなっていった。つまり、僕はこの塾で世界の広さと旅の自由を知ってしまったのだ。僕が二〇年間も抱き続けることとなった世界を旅する夢のきっかけは、犬神先生であることは間違いないと言うことだ。それと同時に物事の考え方、美的感覚、興味の対象等、僕の精神的基盤にかなりの影響を与えただろう。例えば、僕はアウトローで、外見はだらしないが、中身の濃い、頭の良い人が好きだ。逆は大嫌い。このように、僕は漠然とそういう人物像に憧れを抱き目指しているのだ。確かに、鏡に映った自分を見ると、外見だけは憧れの人物像のようだ。
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